弁護士の最所です。 松本人志さんが、週刊文春に対する訴えを取り下げたとの報道がなされています。
まずは、具体的な事情は分かりませんが、名誉毀損事件での一般的な裁判手続について、ご説明いたします。
名誉毀損を理由とする損害賠償請求訴訟では、大きく、3つの点が争点になります。具体的には、①摘示事実が何か、②摘示された事実が真実であるか、③真実でなかった場合に、真実であると信じたことに相当な理由があるか、の3点です。
訴訟の進行としても、まずは、①摘示事実が何か(どのような事実を摘示したのか)、を明らかにする必要があります。何が摘示事実なのかが明らかにならないと、そもそも、真実性の対象(証拠によって真実であると証明すべき対象)が明確とならないためです。
訴状を見たわけではないので、これまでの報道からの推測になりますが、おそらく、松本人志さんは、「性行為を強制した」との事実を、摘示事実として主張していたのではないかと思われます。
「性行為を強制した」事実が摘示事実であるとした場合、その真実性の対象は、松本人志さんが性行為を強制したことが、真実であるか否かということになります。仮に、「性行為を強制した」ことが事実であった場合には、松本人志さんは、不同意わいせつ(刑法176条:6月以上10年以下の拘禁刑)、不同意性交(刑法177条:6年以上の有期拘禁刑)に該当する行為を行ったということになりますので、当然に刑事事件化すべき事案であるということになります。
一方で、仮に、摘示事実が「飲み会に参加した女性に対し、性的行為(客観的には、セクハラと目されるような行為)を行った」という事実であるとした場合、真実性の対象は、飲み会に参加した女性がいたこと、その女性に対し、松本人志さんが、性的行為(客観的には、セクハラと目されるような行為)を行ったことが、真実であったか否かということになります。
いかなる事実を摘示事実と判断するのかについては、判決において裁判所が判断します。もちろん、審理の途中で裁判所からの心証開示がなされる場合もありますが、最終的な判断は、判決が出されるまで分かりません。
なぜ、松本人志さんが、この裁判を起こしたのか、その目的は不明ですが、松本人志さんは、自分を性犯罪者だというような表現をした週刊文春が許せない、そのようにお考えになったのかもしれません。
しかしながら、強制ではなかったとして、一般の人の感覚として、松本人志さんには、全く問題がない、全く問題がないことを騒ぎ立てた、週刊文春は悪である、との評価にはならないのではないかと思います。松本人志さんは、既婚者ですから、性的行為に同意があったとしても、不貞行為を行ったということになります。
一般の人の感覚としては、芸能界で多大な影響力を有している人物が、飲み会の場に、後輩芸人が連れてきた女性に対して、性的行為(客観的には、セクハラと目されるような行為)を行ったという事実だけで、問題視されることになるのではないかと思います。
問題の本質は、「性行為を強制した」か否かではないはずですが、どうも、その視点が欠けていたように思えてなりません。
仮に、松本人志さんが、自分は、無理矢理性的行為に及んだ訳ではない、なぜ、叩かれなければならないのかと考えていたとしたら、一般の人の感覚とはズレていると言わざるをえないでしょう。
一般的には、訴訟を起こすことによって世論を喚起するというような目的がある場合を除いて、勝訴の見込みがなければ、訴訟を提起することはありません。
特に、名誉毀損事件の場合、訴訟の進行によって、様々な事実が明らかとなりますし、却って、多くの人の注目を集めてしまうことにもなります。また、仮に、真実であると裁判所が判断してしまった場合には、訴訟を起こしたことで、さらに、傷口を広げる結果ともなりかねません。
今回のケースでは、「性行為を強制した」事実がなかったから、大丈夫とはならない事案のはずですが、そう考えると、なぜ、訴訟を提起したのか、非常に疑問が残ります。
しかも、今回、松本人志さんは、訴訟を取り下げています。訴訟を取り下げるということは、単に訴訟提起の前の状態に戻すという意味しかありません。それまでに行ってきたことはすべて無駄になりますし、取り下げるくらいなら、なぜ、訴訟を提起したのか、訴訟提起の意義自体にも疑問が生じることになります。
一般論ですが、訴訟の取り下げが行われる場合は、そもそも請求が認められないと裁判所が考えて、裁判所から取り下げを検討するように指示された場合、または、訴訟外での合意が成立したような場合、あるいは、被告に対して破産開始決定が出されて、訴訟手続きを継続することが困難となった場合、等の事情が考えられます。
今回のケースでは、おそらく、訴訟外での何らかの話し合いがなされた上での取り下げだったと思われます。取り下げで終わったということは、双方の考え方に隔たりが大きく、最終的な合意に至ることができなかった、ということなのではないかと推察致します。
ただ、結果的に見ると、訴訟を提起したにも関わらず、文春の記事が事実ではなかったとの裁判所の判断を得ることなく、終わらせてしまった、ということになりますので、訴訟提起を行うとの判断自体が、果たして合理的であったのかというと、やはり、疑問が残ります。