弁護士の最所です。
1月25日の東京新聞のサイトに以下の記事が掲載されていました。
判決文を確認していないので、報道された範囲ですが、報道によると、
過去に、歯科医師が歯科医師法違反で逮捕され、罰金50万円の略式命令を受けた事実が、10年以上も経過した現在においても、検索結果に表示される状態が続いている。
それに対して、裁判所が検索結果からの削除を認めなかった。
という事情のようです。
ある人が逮捕されたという事実は、その人の社会的評価を低下させるものですが、同時に、公共の利害に関する事実に該当しますので、逮捕されたことが真実であれば、基本的に、名誉棄損罪は成立しません。
もちろん、逮捕されたという事実は、通常人に知られたくない事実ですし、また、人に知られることでその人が社会において更生することが妨げられる場合もありますので、一定の場合には、過去に犯罪を犯した人の利益についても、配慮する必要があるでしょう。
一方で、その人がどのような素性や属性を有する人であるかについては、その人と関わり合いを持つ人々にとっては、重要な関心事といえますし、そのような人々が抱く関心事について、広く表現する自由もまた、保護すべきだといえるでしょう。
この相対立する利益をどのように調整すべきか、この点については、基本的には比較衡量によらざるをえないと思っています。
検索結果の削除に関し、最高裁は、「当該事実を公表されない法的利益が優越することが明らかな場合には,検索事業者に対し,当該URL等情報を検索結果から削除することを求めることができる」との判断基準を示しました。
私は、検索エンジンが提供する検索結果は、インターネット上で、検索エンジンが提供しているコンテンツ上に、一定のアルゴリズムに基づき表示されたものに過ぎず、まとめサイトやコピーサイトと原理上区別する必要はないと考えています。その意味では、検索エンジンのみを特別扱いする必要はないとの立場ですので、最高裁が「明らか」という要件を加えたこと自体について批判的な意見を持っておりますが、比較衡量の考え方を取ること自体については、決して否定するものではありません。
問題は、比較衡量の対象です。
一方は、過去に犯罪を犯した人のプライバシー及び更生を妨げられない利益であって、それに対峙する利益として、いかなる点を考慮するかという点です。
仮に、対峙する利益を国民の知る権利であるとか公益とか、そういった抽象的かつ大多数の利益としてとらえた場合、一個人の利益というものを過大視することは当然できないでしょうし、そのような比較衡量を行ってしまえば、削除が認められる余地はほとんどなくなってしまいます。
今回の判決文では、「公共の利害」と言っているようですので、その点からすると、結論先にありきの比較衡量をしたのではないかと思わざるを得ません。
私は、比較衡量を行なうものとすれば、検索エンジンによる検索結果の表示に伴う表現の自由と、一個人のプライバシー及び更生を妨げられない利益とを、比較衡量すべきだと考えています。
具体的には、略式で罰金刑を受けたに過ぎない人の犯罪行為を、10年以上も経った現在において、敢えて表現しつづけなければならない事情と、表示される側のプライバシー及び更生を妨げられない利益が侵害されてもやむをえない事情、この2つを厳格に比較衡量すべきだと思います。
裁判所が、きちんと、表現する必要性について検討したのかは不明ですが、知る権利だとか、公共の利害であるとか、そういったキーワードを用いて判断したのだとすれば、余りにも安易すぎると言わざるをえません。
犯罪を犯してしまった人の社会復帰を徒に困難にしてしまう社会、寛容性のない社会が、私は決して健全な社会であるとは思いません。
犯罪を犯す人は、自分とは違う特別な人間だ、自分とは無関係であると考える人は多いと思います。
しかしながら、現実には、犯罪に至る経緯において様々な事情があるのも事実です。誰もが犯罪を犯したいと思って犯罪者となった訳でもありません。そのような中で、自らの過去の行為について悔い、長期間に渡って、犯罪とは無関係の人生を送っていた人に対して、いつまでも、犯罪者だとのレッテルを張り続けること、また、その事実を公表し続けることに、どれだけの価値があるというのでしょうか。
検索エンジンが、機械的に表示しているのであれば、なおさら、その表現の必要性については、厳格に判断されてしかるべきでしょう。
そもそも、検索エンジンに対しては、損害賠償を求めている訳ではなく、単に、表示することの差止(削除)を求めているに過ぎないのです。検索エンジンの側も、その表現を、その人のプライバシーや更生を妨げられない利益を侵害してもなお、表現しなければならない必要性があるのか、その点については、真剣に考えていただきたいと思います。
表示する側は、「機械的」なのかもしれませんが、その表現によって、プライバシーや更生を妨げられない利益を侵害される側は、「生身の人間」なのですから。