平塚に事務所を開設してから、国選事件を受けることが増えてきました。
刑事事件で弁護人に対して向けられる批判の一つに、「なんで悪人の味方をするのか。」といったものがあります。
人によって考え方は違うと思いますが、私は、「『悪人』の味方をしているのではなく、国家の刑事司法制度を守っている。」と思っています。
刑事裁判によって判決が下されると、その判決が、死刑判決であれば、生命を奪われます。また、死刑に至らないにしても、実刑判決が下されれば、身体が拘束されて、自由が奪われます。
なぜ、国家によって、このようなことが許されるのかと言えば、公正な手続の下で、慎重に審理した上で、そのような結論になることはやむを得ないと判断されたからです。
「公正な手続の下で、慎重に審理した。」と言えなければ、国家によって、刑罰を科す根拠は認められないでしょう。
そして、「公正な手続の下で、慎重に審理した。」と言えるためには、少なくとも、刑罰を科されようとしている人の言い分を聞いて、それを法的に構成した上で、それでもなお、この人には、このような刑罰を科さざるを得ないと、政治的にも中立で独立な裁判所が判断したという事実が必要です。
そのため、たとえ、結論が変わらなくても、弁護人が真剣に活動を行ったという事実そのものが、刑事司法制度を守る上で重要な意義を有しています。無罪判決となった、或いは、控訴審で一審の判断が覆されたということは、弁護人がいなければ、又は、弁護人が真剣に弁護活動を行っていなければ、本来科されるべきでない刑罰が科されてしまった、つまり適切な処分が下されなかった可能性があることを意味します。
適切な処分を下すことができない刑事司法制度には、正当性を認めることは出来ません。
ところが、仕事がない(受任できない)から、糊口をしのぐために国選事件を受任するという弁護士の噂も残念ながら耳にします。
このような弁護士の中には、まともに、公判(刑事事件の裁判手続きを意味します。)の準備をすることもなく、被告人質問でも、「君のお母さんは泣いてるぞ。」「もう2度とやらないと誓えるね。」程度の『定型的』な質問を繰り返す弁護士も存在しているようです。
刑事司法制度を守る上で、弁護人による活動は、非常に重要な意義を有しています。
そのためには、まずは、弁護士自身が真剣に弁護活動をしなければなりません。
また、仕事がないからといって、安易に国選弁護人になるような風潮が広まってしまうと、結果として弁護士に対する社会の信頼そのものが失墜しかねない(弁護士に対する社会の信頼なんか、そもそもないと言われる方もいらっしゃるでしょうが。)、少なくとも、私はそのように考えております。