弾劾裁判所による罷免判決


裁判官には特別の地位が認められいる!?

弁護士の最所です。

岡口裁判官が、弾劾裁判所で、裁判官を「罷免」されました。

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憲法上、裁判官には特別の地位が認められています。

具体的には、憲法78条で「公の弾劾によらなければ罷免されない。」、80条2項で「報酬は、在任中、これを減額することができない。」と明確に規定されています。

裁判官は、一度、裁判官として任命されると、その任期中は、解雇もされないし、減給もされないという、普通の会社では考えられないくらいに、その身分が保障されているということになります。

裁判官には、強い「権力」がある!!

なぜ、裁判官を、そこまで厚く保護しなければならないのでしょうか。

それは、裁判官には、個人として、ものすごく強い権力があるからです。

裁判官が下す判決には、強制力があります。

○○円を払えとの判決が出されれば、本人が嫌だといっても、財産は売却されますし、定期預金も解約されてしまいます。また、建物を明け渡せとの判決が出されれば、強制的に建物から引っ張り出されてしまいます。

また、刑事事件で懲役刑の判決が下されれば、刑務所に入れられてしまいます。

まさに、裁判官が下す判決は、国家「権力」そのものです。

ただ、そうだとすると、それほど、強い権力が認められているのであれば、その身分については、むしろ厳しく判断されるべきであって、少しでも問題があれば、直ちにクビにできるようにすべきだ、ということになるはずです。

しかしながら、憲法は、全く逆に、裁判官に対して、強い身分保障をしています。

なぜ、裁判官の身分を保障しなければならないのか!?

国家権力は、立法権(国会)、行政権(内閣)、司法権(裁判所)の3つに分けられています。

法律は、選挙で選ばれた国会議員の多数決によって決められ(立法)、その決められた法律にしたがって国家権力は運営(行政)されます。

そのため、立法権と行政権は、徹頭徹尾、多数派の意見に沿って運営されることになります。

多数者の意思に沿って国家権力が運営される、それが民主主義の原則ですが、一方で、多数者の意思が歴史的にみて、常に正しかったのかというと、必ずしもそうとは言えません。

例えば、国内で一般市民が被害を受けるようなテロが起こったとき、早くテロリストを捕まえろ、やれることは何でもやれ、少しでも怪しいやつがいたら、すぐに捕まえろ、人権、そんなことを言っている場合か、このような意見が、多数の意見となるでしょう。

その場合、「少しでも怪しいやつ」として、ターゲットとされるのは、多くの場合、社会の多数派とは相容れない、「少数者」です。

「あやしい外国人がたむろしていた」「昼間から引きこもっていて何をしているかわからない。」・・・

ターゲットとされた「少数者」が、いきなり解雇されたり、社会からバッシングを受けたり、身柄を拘束されたり、このような場合に、助けを求めることができる「権力」者がいるのは、裁判所だけです。

裁判所の裁判官だけが、行政権の行使が違法であると判断することができ、国会の法律が違憲であると判断することができる「権力」を持っています。

もし、裁判官を簡単にクビにできたり、クビにしないまでも、給料を減らすことができてしまうと、裁判官は、自らの任命権者である内閣(行政権)の顔色を窺いつつ、自らの業務を行わなければならなくなります。

要するに、裁判官が「権力」者でなくなってしまうことになります。

裁判官が「権力」者であることで、任命権者である内閣(行政権)の顔色を窺うことなく、自らの「良心に従い独立してその職権を行」う(憲法76条3項)ことができます。

裁判官が「権力」者であること、これが、社会の多数派とは相容れない「少数者」の権利を守るための方法として、国家の基本法である憲法によって定められた理由です。

弾劾裁判所による裁判が裁判官を「クビ」にする唯一の方法

それだけ、強い身分保障がなされた裁判官をクビにすることができる、唯一の方法が弾劾裁判所による裁判です。

弾劾裁判所は、「両議院の議員で組織する」(憲法64条1項)とされています。

構成員が「両議院の議員」である以上、当然に国民の多数派の意見が反映されることになりますので、弾劾裁判所での裁判自体に、人民裁判の性質があることは否定できません。

今回、SNSでの投稿、裁判官による表現行為が、その対象とされました。いうまでもないことですが、表現の自由は、民主主義が正当に機能するための前提となる重要な権利です。

弾劾裁判所が、どのような理由で「罷免」の結論に至ったのか、その点については、十分に検討してみたいと思っています。