許される投稿と許されない投稿


弁護士の最所です。

先日、インターネット上で、どのような投稿が許され、どのような投稿が許されないのかという点に関し、弁護士ドットコム様から取材をしていただきました。

『アマゾンレビューのコメント、どこまで許される?…「中傷投稿」の発信者情報開示命令』

非常によくまとめて頂いたのですが、紙面の都合上、言い足りなかった部分もありましたので、再度、この点について、私の考えを述べさせていただきます。

表現の自由は憲法上の権利として保障されています。では、なぜ、表現の自由が重要なのでしょうか。

人はその立場によって、当然に意見が異なります。その異なる様々な意見の人が自らの意見を表明し、それらの意見に対し、賛同する意見や逆に批判する意見が投稿されることによって、議論が生まれます。

議論がなされる中で、

Aさんの意見はこの点では行き過ぎかもしれないけれども、この点では確かにそうかもしれない、一方で、Bさんの意見は視点がずれているようだが、素直な感情しては理解できる、また、Cさんの意見は、Aさんとは真逆で、自分としては全く違うのではないかと思うけれども、CさんがAさんに対して批判している点について、Aさんは、十分に反論できていない、そうすると、自分の意見としては、Aさんの○○という点については賛成するし、その考えは、Bさんの気持ちとも一致しているのではないか・・・。

というような形で、議論が集約され、一つの結論へと向かっていく・・・。

これが、ある種、正常な議論、民主主義の理想型です。

このような議論がなされている場合、他者への批判は、議論の質を上げていく上でも、非常に重要です。また、建設的な批判を否定してしまえば、議論をする意味がありません。

特に、為政者の政策、活動内容に対する批判は、批判を行うことによって、政策の問題点を浮き彫りとしたり、また、議論がなされることで、政策が修正されていくことも期待できます。

もし、為政者が、正当な批判を受け入れることなく、国民の意思を無視して政策を実行していると有権者が判断すれば、次の選挙で為政者を権力の座から引きずり下ろすことも可能です。仮に、正当な批判を制限するようなことがあれば、物事の本質を明らかにしていくことはできませんし、ましてや、為政者の政策の問題点を浮き彫りにすることもできません。

主権者である国民が主権者でありうる為にも、正当な批判を自由に行うことができる場は、守られなければなりません。

その意味でも、誰もが自由に投稿できるインターネット上のレビューやコメントは、個人が自由に自分の意見を表明できる重要な表現の場として、守られるべきだとおもいますし、また、そこで、建設的な議論がなされることで、物事の本質が明らかになっていくことも期待できるでしょう。

では、個人が自由に自分の意見を表明できる重要な表現の場において、どのような投稿が許され、どのような投稿が許されないと言えるのでしょうか。

許されない批判的投稿の一例として、内容が虚偽の投稿があげられます。虚偽の投稿を基にしたのでは、議論の土台となる事実が間違っているのですから、そこからは、建設的な議論はなしえません。

また、単なる侮辱的表現に過ぎない投稿(「バカ」「アホ」「間抜け」等)や、批判対象者の身体的特徴を揶揄するような投稿(「ハゲ」「デブ」「チビ」等)、差別用語の投稿、いわゆる「ヘイトスピーチ」、又は、殊更にプライバシー晒す内容の投稿等、これらは、見る人を不快にさせるだけでなく、批判的言動をある種の恫喝によって制限しようとするものですから、建設的な議論を行う上では、有害以外の何ものでもありません。

表現の自由が憲法上保障されたのは、正常な議論を行い、異なる意見を集約し、時間をかけて、一つの結論に導いていくことができるからです。

自らの投稿が、正常な議論を行う上で、有益なものかどうか、言い換えれば、議論を制限してしまう投稿かどうか、そういった観点から考えれば、許される批判的投稿か否かについては、自ずと明らかになるのではないでしょうか。